アイリスが辿り着いたのは、城の巨大な厨房の奥まった一角にある薄暗い洗い場だった。
そして彼女の眼前には、昨夜の饗宴で使われたであろう無数の皿、銀食器、そして焦げ付きのこびりついた大鍋の数々。 それらが、逃れようのない今日の最初の労役として、アイリスの来訪を音もなく待ち構えていた。しかし、その絶望的な光景を前にしても、アイリスの表情に深い陰は差さない。
彼女はそっと、一番手前にあった陶器の皿に指先で触れると、旧知の友に囁きかけるように、柔らかな声を紡いだ。 「おはよう、わたしのお友達」 その声には、深い孤独と、だからこその愛おしさが滲んでいる。 「今日もお世話になりますね。物言わぬあなたたちだけが、唯一、心を許せる味方だから」 自嘲ともつかぬ微笑を唇に浮かべ、アイリスは冷たい水に手を浸し、山積みの食器の一つを取り上げた。 そして、皿を洗いながら、ごく小さな、ほとんど吐息にしか聞こえぬほどの声で、懐かしい歌を口ずさみ始める。 それは、遠い昔、優しい母が彼女を腕に抱きながら、子守唄のように幾度となく歌ってくれた旋律。あまりにも多くのものを奪われ、虐げられてきた彼女にとって、その温かな記憶だけが、今もなお色褪せることのない、唯一無二の心の灯火であり、か細い魂を支える最後の砦なのだった。 「~♪」 懐かしい母の歌を口ずさむうち、アイリスの心はいつしか過去へと遡っていく。 陽光に満ち溢れ、優しい母の愛に包まれていた、あまりにも短く、そして輝かしい日々。それは、手の届かぬ夢の残照。 しかし、その温かな記憶は冷たい影によって断ち切られるのだった。──そう、全ての歯車が狂い始めたのは、母が、この世を去ってからだった。
かつて、アイリスは次代の光とさえ囁かれた正真正銘の王女であった。母である王妃が存命だった頃は、彼女の周りには常に人々の優しい笑顔と、温かな言葉があった。
しかし、その母が儚くも病に倒れ、天へと召されてから数年も経たぬうちに、父である国王は新たな王妃を迎えた。それが、アイリスの運命を底なしの闇へと突き落とす、全ての始まりとなる。新たな王妃──アイリスにとっての継母は、美しく気高い容貌とは裏腹に、酷薄で嫉妬深い心を秘めた女だった。
彼女は、先代の王妃の忘れ形見であり、その面影を色濃く宿すアイリスを、忌むべき存在であるかのように異様に疎み、憎んだ。 その執拗なまでの憎悪は、日を追うごとに形を変え、アイリスから王女としての全ての権利と尊厳を一つ、また一つと容赦なく剥ぎ取っていった。 豪華な衣装や宝飾品は取り上げられ、教育係も侍女も遠ざけられ、ついには城の片隅の埃っぽい小部屋へと追いやられた。そして、父である国王は……。
新たな后の邪な囁きに耳を貸すばかりか、冷酷な本性を見て見ぬふりをするかのように、日に日に娘への関心を失っていった。継母がアイリスにどれほど理不尽で残忍な仕打ちをしようとも、それを咎めることも、庇うことすらしない。 その沈黙は、事実上の黙認であり、アイリスをこの城におけるただの召使い以下の、名もなき存在へと貶める最後の決定打となったのだった。 かくして、王国唯一の王女であったアイリスは、継母とその取り巻きたちから虐げられるだけの、声なき影として生きることを強いられるに至ったのである。母の面影を胸に抱き、その懐かしい歌の旋律をくちびるに乗せるうち、アイリスの心はしばし現実の冷たさから解き放たれ、温かな追憶の光に包まれていた。
(お母様……もし、今もここにいてくださったなら……) 淡い願いが、小さなため息と共に歌声に溶け込もうとした、まさにその時──。 「──おいっ!そのような場所で、何をふざけた歌を口ずさんでいるのだッ!!」 突如として、鼓膜を突き破るかのような凄まじい怒号が、厨房の冷たい空気を激しく震わせた。それは、一切の慈悲も許容も含まぬ、ただただ純粋な怒りと侮蔑に満ちた声。 アイリスの華奢な肩がびくりと跳ね、口ずさんでいた母の歌は途切れ、彼女の瞳からは一瞬にして追憶の柔らかな光が掻き消えた。恐る恐る、そして凍りつくような予感に身を強張らせながら、アイリスがゆっくりと声のした方へ振り返る。そこには──
「薄汚い女の血を引いているだけあるな……鬱陶しいことこの上ないわ」 威圧的な影が、仁王立ちになっていた。 冷酷なまでに整った顔立ちに、常に他者を見下すかのような険しい眉。 磨き上げられた黒檀のごとき硬質な瞳でアイリスを射抜くように睨みつけているのは、この王城の秩序を司る、王宮長官グレゴリーその人であった。その温かい光景に、リリーは月の光のような優しい笑みを、半透明の顔に浮かべた。「ふふ……。王子様は、本当に、姫様のことを、深く、お考えになっていらっしゃるのですね」隣に立つジェームズもまた、骸骨の顔を、心なしかほころばせながら、アイリスとバディの、笑ましい再会を温かく見守っていた。アイリスは、二人のその優しい視線を感じながら、嬉しさで、胸がいっぱいになるのを感じていた。しかし同時に、大きな喜びは、心の奥底に、固く、固く、封じ込めていたはずの、悲しい記憶の扉を、容赦なくこじ開けてしまう。バディの、変わらない愛らしい姿を見つめていると、あの、冷たい雪が降る、悲しい一日の記憶が、鮮明に蘇ってくるのだ──。「バディ……ごめんね……。ごめんなさい……。あの時あなたのために、何もしてあげられなくて……」アイリスの声は嗚咽に震えた。そして、大きな瞳から今度こそ後悔と悲しみに満ちた、大粒の涙が止めどなく溢れ出した。「むっ……」「あら……」アイリスの悲痛な後悔に満ちた呟きと、その頬を伝う大粒の涙。その様子にジェームズたちは心配そうに顔を、彼女へと近づけた。「姫様……?」二人が気遣うようにそっと声をかける。「『あの時』、とは……。一体、どういう、ことでございましょうか……?」その声は、決して、彼女を詮索するものではない。彼女が抱える、深い悲しみを少しでも分かち合いたいという、心からの温かい響き。アイリスは一度深く息を吸うとゆっくりと話し始めた。その声は最初こそ小さく震えていたが、語るうちに徐々に、そして確かな強さを帯びていく。
アイリスの腕の中で碧い光を放つ犬は、「くぅん、くぅん」と、喜びの声を上げながら、ちぎれんばかりに短い尻尾を振り、夢中でアイリスの顔を舐めようとしていた。 その姿はまぎれもなく、アイリスが幼い頃、たった一人の友達として、誰よりも愛していた、コーギー犬のバディ──。 「あぁ……」 ぴんと立った、大きな耳。短い、愛らしい、足。そして、いつも、アイリスのことだけを、真っ直ぐに見つめてくれていた、くりくりとした愛嬌のある顔── 全てが彼女の記憶の中にいる、バディそのものだった。 しかし今のバディは、身体が冥府の国の住人たちと同じ、青白い光に優しく包まれており、向こう側が僅かに透き通って、見えていた。 「バディ……?本当に、バディなの……?」 アイリスの瞳から、ぽろぽろ温かい涙がとめどなく溢れ出した。彼女は震える手で、愛しい犬の頭を、撫でてみる。 その感触は、やはり生きていた頃とは違っていた。ひやりとかすかに冷たく、柔らかな朝霧に触れているかのような、不思議な感覚。 指が、青白い光の中へとほんの少しだけ沈み込むような、この世ならざる感触にアイリスは戸惑いながらも、どうしようもないほどの懐かしさで胸がいっぱいになっていく。 「わん!」 アイリスの優しい手つきに、バディは、嬉しそうに高い声を上げた。 そして彼女の腕からふわりと浮かび、床に降りると、アイリスの足元で、くるくると何度も何度も楽しげに回り始める。 その元気の良い動きに合わせて、バディの身体から放たれる青白い光の軌跡が、部屋の空中にいくつもの美しい光の輪を描き出し、幻想的な光景を、作り出していた。 「これは、なんと……」 そんな再会の光景を、ジェームズとリリーは、言葉もなく驚愕の表情で見つめていた。 「ひ、姫様……この子は……?」 リリーが恐る恐るといった様子で、アイリスに尋ねた。 アイリスは涙で濡れた瞳で二人を見つめ返すと深く頷いた。その頬を次から次へと伝う涙の雫は腕の中のバディが
ジェームズとリリーに両脇を支えられるようにして、アイリスはようやく、自室として与えられた部屋の扉の前まで戻ってきた。王子との対面……そして、あまりにも多くの常識外れな出来事。その全てが彼女の心と身体をひどく消耗させていた。道中、再びあの大書庫の前を通りかかった時には案の定、古代の哲学者たちの霊魂グループに捕まりそうになってしまった。『おお、そこの生者の姫君!ちょうど良いところに!我らの、この、魂の「実存」と「本質」に関する、三百年来の議題に、何か、新しい知見を……』そう言って、半透明の老人たちが、にじり寄ってきた時には、どうなることかと思ったが、「まあ、皆様。そのような、答えの出ないお話よりも先程、厨房のザルボー様が、『魂の抜け殻で出汁をとった、絶品のスープ』を、お作りになってましたわよ。早く行かないと、大食らいの幽霊たちに全部飲まれてしまいますわよ」というリリーの一言によって、哲学者たちは、「な、なんだと!」「わしにも一杯!」と、蜘蛛の子を散らすように消えていった。そんな珍道中を経て、ようやくたどり着いた自室の扉の前。アイリスは精神的にも肉体的にもへとへとになって、壁にぐったりともたれかかっていた。「つ、疲れました……」アイリスが、壁に寄りかかったまま、そう弱々しく呟くと、ジェームズが骸骨の顔にくすり、と苦笑いを浮かべた。「お疲れ様でございます、姫様。さあ、中へ」そう言ってジェームズがアイリスを気遣うように、ゆっくりと部屋の扉を開ける。そして部屋の中へと、アイリスが一歩足を踏み入れた、まさにその瞬間。「──ワンッ!」元気の良い鳴き声と共に、部屋の奥から小さな青い光の塊が、矢のような速さでアイリスの胸へと飛び込んできた。「きゃっ!」思わず、素っ頓狂な声を上げたアイリスは
王子の甘い囁きを最後に、遠のいたはずのアイリスの意識。しかし次の瞬間、彼女は我に返った。目の前に広がるのは、王子の温かな私室ではない。先程までいた、あの荘厳な扉の前であった。「……」すぐ目の前には、微動だにしない二体の冷たい骸骨騎士が変わらずに佇んでいる。(夢……?)鮮明な、しかし非現実的な先程までの出来事。その狭間でアイリスの意識は、ひどく混乱したままであった。(いえ、でも……あの、手の、温もりは……)自分の手のひらを見つめる。王子に握られたはずの手のひらには、まだ、不思議な温かさが確かに残っているような気がした。「姫様!」アイリスが、夢とも現ともつかぬ記憶の狭間で、呆然と立ち尽くしていると、ずっと扉の前で固唾を飲んで彼女の帰りを待っていたであろう、ジェームズとリリーが突如現れたアイリスに気づいた。二人は慌てた様子で、アイリスの元へと駆け寄ってくる。「ご無事でございましたか!」ジェームズの声には落ち着き払った執事としての威厳はなく、主を案じる心からの安堵の色が滲んでいた。「まあ、姫様!お顔の色が、真っ青ですわ……!一体、中で何が……?」リリーもまた、半透明の顔を、今にも泣き出しそうに心配の色で曇らせていた。二人の声にはアイリスの身を心の底から案じる、温かい響きが浮かんでいる。心配そうに、矢継ぎ早に質問を投げかけてくる二人に対して、アイリスはうまく言葉を返すことができなかった。「だ、大丈夫、です……」そう答えるのが、精一杯だった。彼女の頭の中は鮮烈な出来事で、完全に満たされていたのだ。あの、全てを許す
自分を信じてくれる王子の温かい腕の中で、ようやく心からの安堵に浸っていた、その時。王子は名残を惜しむかのように、その身体を離した。そして美しい顔に、少しだけ申し訳なさそうな、苦しげな色を浮かべて静かに告げた。「残念ながら、あの公爵たちの許可を得る試練において、俺は直接君の力になってやることはできない。それもまた、この国の決して覆すことのできぬ、古くからの『掟』なんだ」しかし彼はアイリスを安心させるように、こう続けた。「だが、それは君を一人にするという意味ではない。俺はいつ、いかなる時も影から君のことだけを見守っている。この身の全ての力をもって、君を必ず守り抜くと、改めて誓おう」力強い誓いの言葉に、アイリスはこくりと頷いた。この人になら全てを委ねられる。不思議と、そう確信することができた。そして、安堵感からか彼女はずっと、心の片隅で気になっていた一番基本的なことを、尋ねてみた。「あの……わたくし、まだ、王子様の、お名前を……伺っておりません」すると王子は美しい貌に、今までにないほど優しく、どこか遠い昔を懐かしむかのような、柔らかい微笑みを浮かべた。「まだ、その時じゃないんだ。いつか、その時が来たら……君自身の口で、俺の名を、呼んでくれ」「え……?」謎めいた、そしてまるで答えを知っていることを前提としたかのような不思議な言葉に、アイリスは、きょとんとして小さな首を傾げることしかできなかった。その表情を見て、王子は楽しむかのように、喉の奥で小さく笑った。そして戸惑いを優しく流すように、話題を変える。「アイリス。今日はもう、自分の部屋に戻ってゆっくりお休み。君のために素敵な『プレゼント』を、部屋に用意したから。……気に入ってくれると、嬉しいな」「プレゼント……」思いがけ
アイリスがようやく表情を和らげ、心からの安らぎに浸っているのを王子は優しい瞳で、静かに見つめていた。彼は穏やかな空気を壊さぬように、語られる言葉の重要性を、響きに含ませて話を切り出した。 「改めて言うが、アイリス。君はここで、死ぬ必要はない」その言葉に、アイリスはこくりと頷く。「だが……」と、王子は続けた。「実は、冥府の国には一つだけ覆すことのできぬ、古くからの『掟』があるのだ」王子は、静かに説明する。この冥府の創生の頃より存在するという、絶大な力を持つ数人の「公爵」たちがおり、彼らがこの国の法と秩序、そして魂の環の均衡を司っていること。そして、古の掟によれば生者の世界の人間が、この国にその身を生かしたまま、永く滞在するためには──全ての公爵たちから、その存在を認められ「許可」を得なければならないのだ、と。「公爵さま方の……許可を、得る」重大な「掟」の話に、アイリスの心にようやく灯り始めたばかりの小さな安らぎの灯火が、再びかき消されそうに揺らめいた。「もし……もしわたしが、公爵様たちの許可を……得ることができなかったら……。その時はやはり……」その先を恐ろしくて口にすることができない。──殺されてしまうのでしょうか、という言葉にならない恐怖が、瞳を絶望の色に、再び暗く揺らした。「──アイリス」そんなアイリスの不安を拭い去るかのように、王子は静かに動いた。そして、椅子に座ったままの彼女の背後へとゆっくりと回り込む。アイリスが驚いて、身を固くする、まさにその瞬間。王子の逞しい両腕が、彼女の華奢な肩を、優しく後ろから、そっと抱きしめた。「!?」突然の、そして生まれて初めての、親密な行為に、アイリスの身体は、驚きと戸惑いで完全に、硬直してしまった。背中から伝わる、彼の確かな体温と、すぐ耳元で聞こえる、彼の静かな息遣い。そうして耳元で、王子が大切な秘密を打ち明けるかのように、絶対的な意志を響きに込めて囁いた。「大丈夫だ。俺が、君を、必ず、守るから……」その言葉を聞いた瞬間。「──」アイリスの心に一滴の雫が落ちたかのように、不思議な鮮やかな波紋が、広がった。(あれ……?この言葉……。どうして、だろう……?)それは、深い霧の向こう側。(昔、どこかで……。ずっと昔に、誰かにこうして言ってもらったような、そんな気がする……